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ゼミ課題読書感想文 鈴木悠太

 

201104

 

 


罪と罰

 

主人公ラスコーリニコフは計画した殺人がいくつかの偶然が重なったことにより二人の人間を殺すことになってしまった。理由が、たったひとつの命とひきかえに何千という命を腐敗や崩壊から救い出し、ひとつの命と百の命をとりかえっこするという考えからである。ラスコーリニコフは殺人に対して葛藤することになるが、この考えは大量の虐殺を容認する意味を持つと考える。ラスコーリニコフの考えは自然の摂理・本性を体現したものです。動物が生き抜くために殺す、生き抜くためにわが子を置き去りにする、なわばりを守るために殺す。動物と同じことを行ったのである。戦争も同じで何かを守るため多くの命が失われていく。多くの命を救うことはできるが失う命もある。

救うために殺すというのは間違った考えであると自分では思うが、それをどのような環境でもはしないと言いきれない。ただ一つ言えることは助けるために殺したとしても、見殺しにしたとしても自分に罰が与えられる。それは法的なものではなく、自身の内面においてである。本書のp213において初めて罰という言葉がでてきた。ラスコーリニコフは人を殺したことによって、自身が殺人を行ったわけではないと言っていても、精神的に追い詰められ苦しみを味わう。病的にうわごとを並べ、徘徊し、自分はひとりでだれも信じることができなくなる。救うという目的がありながら、なぜ財布の中身をぬきとらなかったのか、金をもって逃げなかったのか。ラスコーリニコフにも理解できない行動を行う。救うために殺した目的から離れた状況になり精神的に苦しんでいる点からも罰は続いているといってもよいのである。殺した時点で罰が自身をむしばみお金という考えの前に精神をやられてしまったのではないだろうか。

ルージンが言うように自身の利害のために行動するのは当たり前でこの一般論は正しい。そしてその考えをつきつめると自身の利害のため殺してもよいというのは極論である、間違いではないにしても行きすぎた考えである。ですがラスコーリニコフはそれを体現した。その罰に対してどのような結論をだし向き合うのか興味深いところである。

マルメラードフの死ぬ場面で罪という言葉がp436に出てきた。神にすがり、神が全てを許したとしても何も償われることはない。カテリーナが言うようにそれは正しいことである。自己の利害のために動いて他人に迷惑をかける、それはその人の罪であり、神が許したとしても影響された人の許す、許さないという問題になる。マルメラードフはラスコーリニコフのように殺人こそしてないものの、家族に自身の利害を優先し、罪を背負ったことになる。

ラスコーリニコフがマルメラードフを助け、お金を渡し去っていく場面がある。それ以降ラスコーリニコフの心情に若干の変化があるように感じた。殺人によって自身の内面に罰を背負い苦しんでいる精神を和らげたと言ってもいい。前回の殺人では一人を殺して多くの命を救おうとしました。今回は命を救おうとしただけである。両方とも最終的に誰かを救うという目的のもとに行動した。だが、殺人という行動のみ加わり罪となり、救うのみで自身も救われるというのはそれだけ一つの命と向き合わなければならないことを意味すると考える。

罪とは何か、罰とは何か。殺人は正当化されていいものなのだろうか。人間は日々罪を背負い、許され、罰を受けているように感じる。マルメラードフの罪は許してもらえていたとしても彼自身で自分の罪をゆるせなかったのだと感じる。殺人は許されることのない罪である。自分の中で永遠と償い続ける罪のように感じる。罪があるとしても罰となるのだろうか。自分の中で罪があったとしてもその先に罰がない場合もあるように感じる。殺人とはそのまま罪と罰があわさって自分のなかに巣くうのではないだろうか。

 

参考文献

ドストエフスキー、『罪と罰』、光文社、20081020

 


 

風が強く吹いている

 

 まずこの小説はいったい何を伝えたいのだろうかと考えた。箱根駅伝を目指していく過程で絶えず問われていた問題は走るとはどういうことかである。十人の寄せ集めのメンバーで箱根駅伝を目指し、期間がない。いくらハイジと走という優れたランナーがいるとしても残りが駅伝初心者。無謀、破綻した構成である。筆者はそのような現実から離れたものを実現させる熱いスポーツを軸としておきたかったわけではない。

 重要なのは箱根駅伝を目指す過程で走、ハイジ、そして竹青荘の人たちの精神的な成長。そして走るとはどういうことか。つまり好きなこと、好きでないこと、しなければならないこと、しぶしぶしていることなど人それぞれの考えがあるが、それを続けて先になにが見えるのかという問いである。

最初の走の存在は他の九人と比べて走る以外何もないような存在に思えた。むしろ他の九人の方が走の持っていないもの、手にしたいものをそれぞれ持っているように感じる。

 王子の存在はハイジを除く八人の中でも重要であったと考える。走とは真逆の走れない選手であり、苦手な運動を必死でやった。王子のおかげで走が走れない人に対し昔嫌っていた部活動方針と同じ感情をいだいていることに気づき、強さを考え始めたと言っていい。走れる人のみの世界から走れない人のいる世界へと入るだけでも走にとっては重要である。ムサは走と似た存在であるように思われる。留学生で駅伝を走るにあたって何かと引き抜かれた留学生と区別をされ悩む。走は強さとは何なのか、他人と区別して求められることなのかと探していた。どちらも共通して言えることは強さであり、自身のなかに強さを認識する点です。ジョータ・ジョージという存在は考えの同じ、違う他人に影響を受けあい、認めあうことを走に教えたように感じた。ぶつかり合う存在がハイジ以外ではこの二人が多い。恋のライバルとして考えてもそう言える。神童は強さの一つを走に対して見せた。記録や結果ではなく自己を越える姿で走に示した。ユキは走や他の住人とは異なり自分の中に道をしっかりもっていると思う。走と同じ世界をみたりしても、親や司法試験で自身に悩みが生じたとしてもしっかり自分の道を定め進んでいく強さがある。最後の走りからもそれが見えてくる。ニコチャンは自分の好きなことに対していくら才能がなくても自分が楽しめればいいという考えを持ち走ったが、これは筆者からすると走に対してというよりも読者に対して投げかけているように思える。キングは人との付き合いが他の住人とは異なり一定の距離を置くタイプだ。それが箱根駅伝を目指すこと通じて仲間ができた。これもニコチャンと同じで読者に対して呼びかけているように思える。

一人として走に与える影響に同じものがない。八人それぞれが違う強さ・弱さ・人生への考えをもち走や読者に対して問いかけているのはとても面白いと感じた。なぜ初心者の寄せ集めの八人なのだろうか。それは走にとって走りを続けたわけではない人たちと関わることで今まで感じてこなかった感情を味わい、また過去を振り返り、刺激を与えられるからである。

清瀬、藤岡という存在は他の八人とは少し違い、走の理想であり、走の強さの一例を視覚的に見ることができる存在だと考える。いつも走の一歩先を行き、考え方や心の在り方、強さを走に示している。だが走の強さ、走るとはどういうことかという問いに対して明確な答えを筆者はだしていない。一例を登場人物で表している。また、わからないからこれからも探していこうという結論をだしている。走ること、努力することがそのまま人生の一部としてつながっている。先に見えるものは漠然としているが自己の糧となると筆者は言いたいのではないだろうか。途中までこの小説に味気なさを感じていた。走やハイジの感情が中心で全く他の人物が掘り下げられていないからだ。王子や他の住人はいったいこのときどう思っているのか、走り始めの感情はどうだったのか、走に対してではなく他の同居人への感情はどういったものだったのか。最終的に多くのページを費やし箱根駅伝でそれぞれの思いが書かれていたが足りないなという印象を受けた。

走るという限定的なことではなく、ただ生活するにしても努力するにしても考えることは、「この先どうなるのだろう。どうすればいいのだろう。」とふと頭によぎる。だが今どうしたかの先にその未来が待っているわけで、箱根駅伝が終わった後この部はどうなるのだろうと思ったとしても全員今に全力で走った。思わないことは自分では不可能である。過去に縛られ、未来を想像する。だが、彼らのように過去を、未来を考えたとしても今を全力で走ってみたいと思う。

 

参考文献

三浦しをん、『風が強く吹いている』、新潮社、200971

 


 

ガンディー 獄中からの手紙

 

 ガンディーの考え方は理想論だと思う。全ての人間がそのように動けたのなら何も苦痛は生まれない全てが平和な世界になるだろう。

真理が全ての根幹であるとするなら、なぜ人間すべてがこの根幹を目指さないのだろうか。真理という理想が自己の利害や人間関係、生活という身近な存在が先に優先事項となり周囲はめまぐるしく動いていて考える暇がないのだろうか。アヒンサー・ブラフマチャリヤなど戒律はとてもとてもきれいですばらしい思想だと思う。だが自分には無理だときっぱりと言える。現状を捨てるのが惜しい気持ちと捨てることへの恐怖があるからだ。さらにきれいすぎるものに対しての抵抗が存在する。実現できるはずがないと考えてしまう。多少なりとも周りの見えるものだと力を注ぎ、達成して充実感を得ることができるが、真理は漠然としていてとても幻想的に思える。

完全なるブラフマチャリアや嗜欲の抑制は経済や国の発展において害悪な戒律だと感じる。周りを見てみればわかる通り、食に関しても、性に関しても娯楽として発展してきたものが数多く存在する。また生活を豊かにするためうまく経済をまわそうと新しく生まれる商品や伝統や特色も存在し、それを嗜むことさえ否定するのだ。ブラフマチャリアや嗜欲の抑制は人類が歩むなかで発展し生まれたものを真っ向から無駄なものと表しているように感じる。国の個性や個人の個性を否定しているともとれる。

ガンディーの思想が多くの民衆の希望となり、バラモン層や政府からは批判が起こった。それだけガンディーの思想はプラスにもマイナスにも多大な影響を与えていることが分かる。戒律の一つ一つが社会の不条理や問題を照らし出しているからだと考える。ガンディーの思想によって現状を変えたいと願う差別される民族や階級の低い人などの多くがその思想に光を見出すのはわかる気がする。とても大きな理想だとしても、その運動には一筋の光があり、ガンディーの行動には軸があり、現状を変えたいとする願いがあるからだ。民族差別や階級差別の撤廃だけでなく、食料問題や環境問題、DVや福祉、労働もあてはあまっていると考える。その全ても戒律の一つ一つを皆が守ればなくなるだろう。なくならない理由の一例としては自身の利欲のため人は行動するところにあるのではないだろうか。全ての人を愛し、行いを許す。真理に到達するためのアヒンサーは自分を殺し神になるというより機械の感情のない人間になるような感覚を受けた。

皆が真理を目指せばこのような社会問題もなくなるのだろう。皆がアヒンサーを体現できれば、戦争も差別も全てがなくなり平等で平和な社会が生まれるはずである。だが独立運動の結果できたインドはガンディーの理想とは程遠いものとなってしまった。完璧すぎる思想は時として人を動かすが置いていかれる人たちも出てくるのである。そして一国だけそのような国が体現できたとしても駆逐されるはずである。外交は、食料は、発展はどうなるのだろうか。一国のみの考えで生きていけないほど世界は複雑なように思える。

ガンディーの思想からなる世界は清く・澄んでいて・厳しく・愛おしい望まれる世界だろう。だが人間は汚く・甘い・渦巻いている世界に身体・心が慣れて手放せなくなってしまったように思える。「風の谷のナウシカ」にあるように人間は腐海の出す瘴気に身体が適応してしまい、澄んだ空気の世界では血を吐いて死んでしまう。人は皆ガンディーの言う思想に血を吐かず真理・アヒンサーを体現できるのだろうか。

 

参考文献

森本達雄、『ガンディー獄中からの手紙』、岩波書店、2010716